2011年8月9日火曜日

死ねば誰かが悲しむ。生きれば君自身が悲しむ。

誰かが言った。
お前が無駄に過ごした『今日』は、昨日死んだ人が死ぬほど生きたかった『明日』なんだ


と。


別の誰かが賛同した。
褒め称えた。
奮い立つと涙した。
俺、この言葉が嫌い。
というか明らかに「良いこと言ってます的」言葉は嫌い。

誰かが死ぬほど生きたかった『明日』は
這いつくばって、色んなもん抱えて苦しんで、苦痛に耐えて耐えて耐えて
生きることに疲れた人の『今日』でもある。
そりゃ生きていたいのに死んでしまうなんて不幸だ。
でも死にたいのに生きていることも不幸だと思う。

そもそも無駄に生きた今日って何だろうか。
何したら有意義で、何したら無駄なんだ。

ニートが就職したら、白血病の少女は死ななかったのだろうか。
寝てばかりの休日を止めて本の一冊でも読んだなら、遠い異国の空に降る爆弾は消えるのだろうか。



知り合いの嬢は酒の場でこんな言葉を俺に言ってた。
「もうこんな汚れた身体は嫌、死にたいよ。」

大学時代のバンド仲間は精神的にいよいよ参って死ぬことさえ今後の人生設計に含んでる。

誰が偉そうな顔して人に生きろなんて指図できるんだ。
生き方が選べないなら、死に方は選ばせてあげなよ。

人間、出来るなら幸せに生きたいさ。でも死にたくなる生き物でもあるんだ。
生きたら幸せ、死んだら不幸なんて分かりやすい道徳はもう通用しない時代なんだぜ。

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